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佐賀地方裁判所 昭和54年(ワ)111号 判決 1985年7月31日

原告

木庭一茂

原告

木庭敏子

原告

木庭ハツヨ

右三名訴訟代理人

榎本勲

被告

峰松卯一

右訴訟代理人

安永澤太

安永宏

主文

原告らの請求を棄却する。

訴訟費用は原告らの負担とする。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告は、原告木庭一茂(以下「原告一茂」という。)及び木庭敏子(以下「原告敏子」という。)に対し、それぞれ金一九四九万一九三九円、原告木庭ハツヨ(以下「原告ハツヨ」という。)に対し金二二〇万円及び右各金員に対する昭和五三年一月二七日から各支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

3  仮執行宣言

二  請求の趣旨に対する答弁

主文同旨

第二  当事者の主張

一  請求原因

1  原告一茂は、亡木庭裕子(昭和四九年二月四日生、以下「裕子」という。)の父であり、原告敏子は裕子の母、原告ハツヨは裕子の祖母である。

2  被告は、肩書住居地で峰松医院を経営する医師である。

3  原告らは被告との間で、昭和五三年一月二四日裕子の発熱等の症状に関する診察、治療を目的とする準委任契約(いわゆる診療契約)を締結した。

4  裕子は、同月二七日午前七時四〇分ころ、峰松医院に入院中、特発性血小板減少性紫斑病(以下「ITP」ともいう。)又は播種性血管内凝固症候群(以下「DIC」ともいう。)に基づく胃腸管の出血による気道閉塞による窒息が原因で死亡した。

5  被告及び被告の履行補助者又は被用者である北村千月看護婦(その後、峰松と改姓。以下「北村看護婦」という。)には、次に述べる診療債務の不完全履行又は過失があつた。

(一) 被告は、被告自ら又は補助者たる看護婦を通じて裕子の出血量、血液の状況、顔色等を看視する注意義務があるのにこれを怠り、昭和五三年一月二六日午後六時三〇分ころから裕子の死亡に至るまでの間裕子の診察、看視をしなかつた。

(二) 被告は、翌二七日午前三時三〇分ころ、北村看護婦から裕子に鼻出血、吐血、腹痛があることについて連絡を受けたにもかかわらず、裕子を直接診察することなく、吐血は、鼻血を飲み込んだことによる吐血と即断し、裕子の胃腸管からの出血を止血の注射をするなどの適宜の方法で防止する業務上の注意義務があるのにこれを怠り、鼻孔に綿花をつめて圧迫する以外に出血を防止する措置をとらなかつた。

(三) 被告又は北村看護婦は、裕子が吐血したことを知つたのであるから、吐血の吸入によつて生じる気道閉塞を防ぐために、裕子を横臥位又は座位にすべき業務上の注意義務があるのにこれを怠り、裕子に右体位をとらせなかつた。

(四) 被告又は北村看護婦は、裕子が吐血したことを知つたのであるから、吐血の吸入によつて生じる気道閉塞を予見し、吸引器によつて血液を吸引除去し、場合によつては生理食塩水によつて洗滌し、又は気管切開をするなどして気道を確保すべき注意義務があるのにこれを怠り、右措置をとらなかつた。

(五) 北村看護婦は、裕子の同日午前零時二〇分ころの約一〇〇ミリリットルの鼻出血、同日午前零時四〇分ころの約二〇〇ミリリットルの吐血、同日午前一時五〇分ころの約三〇〇ミリリットルの吐血、同日午前三時三〇分ころの約四〇〇ミリリットルの吐血をそれぞれ見たのであるから、これを被告に逐一報告すべき注意義務があるのにこれを怠り、被告に報告しなかつた。

6  因果関係

被告又は北村看護婦が前項(一)ないし(五)の注意義務を果し、適切な措置をとつていれば、裕子が死亡することを防げた。<以下、省略>

理由

一請求原因1ないし4の事実は、当事者間に争いがない。

二事実経過

<証拠>を総合すれば、以下の事実が認められる。

1  被告は、昭和五三年一月二四日午後六時三〇分ころ、原告敏子から電話により裕子の診察依頼を受け、同日午後七時ころ裕子を初めて診察した(なお裕子は昭和五二年九月急性上気道炎での受診歴がある。)。問診の結果、裕子は、昭和五三年一月二二日から摂氏三九度の発熱が続き、咳嗽があり、食欲不振の状態にあり、鹿島市内の吉田病院に受診していたが、病状が軽快しなかつたことがわかつた。

被告が診察すると、裕子は、左顎下リンパ節が小指頭大に腫脹して圧痛が存し、咽頭及び両扁桃腺が肥大発赤し、胸部聴診で左後下肺野に湿性ラッセル音が聴取されたものの、皮膚出血、鼻出血はみられず、意識は正常で、その他の異常所見は認められなかつた。そこで、被告は、裕子は感冒から気管支炎を併発したものと診断し、抗生物質、鎮咳去痰剤、解熱剤を処方して、午後八時ころ帰宅させた。

2  翌二五日正午ころ、原告敏子が裕子を伴つて被告方に来院し、裕子の高熱と食欲不振を訴えたので、被告が再度診察したところ、顎下リンパ節は前日にくらべてやや縮小していたが、胸部ラッセル、扁桃腺発赤は依然として認められ、熱は三八度五分であつた。被告は看護婦に命じて尿を採取させ検査したが、赤血球、白血球、糖、蛋白は陰性で沈渣にも異常は認められなかつた。被告は、原告敏子に対し、裕子の食欲不振、咳嗽、高熱が続くと肺炎を起すおそれがあること、水分が欠乏すると熱が下がりにくく、水分を補うため点滴をする必要があるが、それには外来診療より入院の方が場所を確保しやすいし、この際入院して経過観察した方がよいなどといつて裕子の入院を勧めたところ、原告敏子はこれを了承し、裕子は、同日午後二時ころ入院した。

3  翌二六日午前一〇時ころ、被告は、看護婦に命じて裕子の左足首(大伏在静脈内踝部)から二ミリリットルの血液を採取し、同日午前一〇時三〇分ころ、佐賀県医師会臨床検査センターに右血液の検査を依頼した。このとき右採血の注射針跡からの出血はすぐに止つた。右採血後被告が裕子を診察したところ、熱は三八度あつたが、左顎下リンパ節腫脹は縮小し、胸部ラッセルも軽減しており、その他に異常所見もないので、容態は軽快しているようにみえた。

4  同日午後六時ころ、北村看護婦は、被告から裕子の食欲と発熱の状態を調べるよう指示され、病室に赴いたところ、裕子の付添いをしていた原告ハツヨから、食事について今日はわりに食べた旨、体温は三七度であつた旨聞き、その旨を被告に報告した。被告は、北村看護婦の右報告を聞いて、裕子の容態は更に回復していると判断した。

北村看護婦は、同日午後九時ころ、病室に赴き、原告ハツヨから前同様に体温は三七度八分である旨、病状は変りない旨聞き、前同様に被告にその旨報告した。

5  翌二七日午前零時二〇分ころ、北村看護婦は、原告ハツヨから裕子が鼻血を出している旨の連絡を受けたので病室に赴いたところ、裕子が口の周りに鼻血を出し、咳をしたり、頭を動かしたりすると鼻から血が流れ出した。そこで、北村看護婦は、裕子の両鼻孔に綿花をさし込み圧迫したところ、綿花の鼻孔内にさし込まれた部分が血で染まる程度で、鼻孔外に出ている綿花の部分が血に染まることなく、その後三回程度綿花を取り替えた。北村看護婦は、右鼻出血がほどなくおさまり、裕子に特段の容態の変化もみられなかつたので、被告には右鼻出血を報告しなかつた。

6  同日午前二時ころ、北村看護婦は、原告ハツヨから裕子が吐血した旨の連絡を受けたので、病室に赴くと、ベッドのシーツに直径約二〇センチメートルの円形の血痕があり、原告ハツヨがこれを拭き取つていた。裕子が便意を訴えたので、原告ハツヨが便所に抱きかかえて連れていつたところ、裕子は便所で下を向いたときに更に一回鼻出血をした。北村看護婦は前同様綿花を裕子の鼻孔内に差し込んで圧迫した。

7  そこで、北村看護婦は、院長室にいた被告に対し、「一号室の木庭さんが鼻血が出て血を吐いているんですけど。腹痛もあります。」と報告した。被告は、北村看護婦に出血の程度を問うと、北村看護婦は、「咳をすると出るんですけども、咳をしないとそうないです。」と答えた。被告は、裕子の吐血は鼻血を飲み込んだものを吐いたものではないか、腹痛についても感冒によつて腹痛を起すこともあると思い、北村看護婦に綿花を鼻に差し込んで圧迫して少し経過をみるように指示した。

8  同日午前三時四五分ころ、北村看護婦は、原告ハツヨから裕子が再度吐血をした旨の連絡を受け、病室に赴いたところ、原告ハツヨから吐血の跡として全体的に赤く染つた二枚重ねの約一〇センチメートル四方のタオルを見せられた。そこで、北村看護婦は、聴診器で裕子の心拍数を測つたところ、一分間に一二〇回で、多少速かつたが、裕子の意識は正常で、皮膚の蒼白もなかつたので、原告ハツヨらに、「今のところ落ちついているから、朝早目に先生にみてもらうから、もう少し模様見て下さい。」と言つた。右吐血を被告に報告することはしなかつた。

9  同日午前七時二五分ころ、北村看護婦と土井看護婦が被告の診察前に裕子のその後の病状を調べるために病室に行くと、原告ハツヨがふとんを二つ折にしてその上に裕子を寝かせようとしていたので、北村看護婦は、裕子の体を動かすことによつて嘔吐を誘発することを心配し、原告ハツヨを制止して裕子を元の位置に戻させた。その途端裕子が嘔吐しそうになつたので、土井看護婦が裕子を横臥位にし、「裕子ちやん、おばあちやん分かる。」と聞いたところ、裕子は首を縱に振りうなずいた。その直後、裕子は特段苦しがる様子もなく、顔面蒼白になり、目が一点を見すえて座り、下顎呼吸をはじめた。

10  そこで、北村看護婦は、裕子の容態の急変を被告に知らせに行つた。被告は、裕子の容態の急変を聞いて同日午前七時四〇分ころ病室にかけつけたが、そのときすでに裕子の呼吸と心拍は停止し、顔面と眼瞼結膜は貧血状態であつた。被告は裕子に心マッサージを施したが、心拍動は起きなかつた。

11  その後、久留米大学法医学教室で行われた裕子の司法解剖の結果によれば、裕子には、顔面、躯幹、四肢の皮膚に溢血点が散見され、胃に著明な出血が、肺、腎に新鮮な血栓像が認められた。また、気管支内には泡沫血様液が、気管内全般にわたり淡赤褐色の泡沫液が、肺の諸所に血液吸引による小斑状の赤血斑が、それぞれ認められた。

12  裕子の血液中の血小板数は、一立方ミリメートルあたり、右解剖の際の推測試算では四万五〇〇〇個、前記3で依頼した血液検査の結果によれば一万六〇〇〇個であつた。

以上のとおり認められる。

三医学的知見

<証拠>、鑑定人三河春樹の鑑定の結果(以下、三河鑑定と略記する)を総合すれば、以下の医学的知見が認められ<る。>

1  三歳一一か月の小児が吐血する原因のうちで最も頻度の高いのは鼻出血の嚥下であり、胃腸管等の内臓からの出血することはまれで、かつ、吐血された血液を観察、検査するだけでは、それが鼻血の嚥下によるものであるのか、胃腸管等内臓からの出血であるかの区別はつかない。

2  四歳前後の小児が上部消化管からの出血をきたす疾患は割合少なく、食道炎、消化性潰瘍のほかは、全身性の出血傾向をきたすアナフィラクトレド紫斑病、血小板減少症、他の凝固因子の欠損に基づく出血性疾患(DIC等)などがあげられ、各疾患の治療、特に応急措置については若干の差があり、予め原疾患の診断が下される以前に応急措置の内容を決定することはできない。

3  医師としては、小児に多量に及ぶ吐血が反復する場合にはじめてITP、DIC等の疾患の鑑別判断を考慮すべきで、一般的な臨床の常識では二ないし三回の吐血の反復を確かめた後、基礎疾患の鑑別のための検査に入るのが通常である。

4  血小板減少症に基因する紫斑病のうち、原因の明らかなものが症候性血小板減少性紫斑病と呼ばれ、原因の明らかでないものが特発性血小板減少性紫斑病(ITP)と呼ばれる。

5  ITPのうち急性型のものは、小児に多くみられ、突然の出血傾向をきたし、脳出血も起しやすい。急性型の大多数は比較的短期間で自然治癒するが、中にはまれに激症例もある。

6  ところで、厚生省では、昭和四八年度からITPを特定疾患に指定し、その病因追究、治療及び予防の確立を目的として調査研究班を組織し、昭和五〇年度の研究業績報告としてその成果をまとめたが、それによるとITPの診断基準は、概ね次のとおりである。

(1)  臨床所見

まず問診により先天性血小板減少症の可能性が排除され、次に現在出血症状を認めるか最近に出血症状の病歴(出血症状は、紫斑ないし紫斑形成傾向が主で、月経過多、鼻出血、歯肉出血、血尿などもあるが、関節出血は通常認めない。)があり、脾臓は触れないか少し触れる程度であること

(2)  検査所見

血小板減少を認め(血小板数は検査方法により若干値が異なること、採血、保存ないし測定手技によりかなり動揺することを考慮し、疑わしいときは再検査することが望ましい。一般的に血小板数は、一立方ミリメートルあたり一〇万個程度を血小板減少としてよいが、出血傾向を呈するのは通常八万個以下であり、主な診療対象は五万個以下の場合である。)、血小板減少に基づく止血凝固検査の異常を呈し(出血時間延長、毛細管脆弱、血餅退縮不良など)、通常貧血を認めず(ときに失血性、鉄欠乏性などの貧血を伴うことがあり、貧血を認めた場合はその病態の解析が必要となる。)、通常白血球数は正常ないしやや増加しており、白血球像には特に異常を認めないこと(ときに軽度の白血球減少を認めることがある。)

(3)  臨床所見及び一般検査所見において以上述べた諸特徴が認められ、反面、右各所見上血小板減少をきたす原疾患(たとえば再生不良性貧血や全身性エリテマトーデスなど)や先天性血小板減少症が一応否定される場合には、これをITPと診断しても臨床上あまり問題がなく、経過観察によつて他に異常を認めなければ確診に近いと考えてよいこと

(4)  確診に至るためには、骨髄所見で、低形成を示さず、変化は巨核球に限られ(但し、貧血を伴うものでは赤血球系の増殖を認めることがある。)、巨核球数は正常ないし増加しており、巨核球像でいわゆる血小板生成型巨核球の減少を認めることが必要であること

(5)  血小板抗体が陽性であり(但し、陰性の場合ITPを否定することにはならない。)、血小板寿命が短縮していることを認めれば、右骨髄検査所見による確診を裏付けることになること

7  ITPには特別の治療を要しない場合が多いが、出血症状の強い場合には、血小板輸血、副腎皮質ステロイドホルモンの投与、血管強化剤の投与が考えられる。しかし、前二者は副作用もあるため、患者の出血量、速度、患者の耐容力を総合して出血が重篤と認められる場合にはじめて用うべきである。血管強化剤は、副作用はないが、効果に乏しい。

8  一方、播種性血管内凝固症候群(DIC)は、多くの原因によつて血管内の凝固因子が消費されるとともに、多くは二次的線溶能も亢進するため、出血傾向が出現し、また広範な微小血栓形成のため、種々の臓器の障害症状、ショックなどを呈する一連の病的過程をいう。

9  DIC臨床像の第一は、出血傾向であり、皮膚の紫斑、溢血斑を生じ、特に注射部、外科切創部の止血困難で気付かれることが多い。また、下血、吐血、鼻出血、血尿、酸血症、呼吸困難、ショック症状等が一般にみられる。更に、DICの診断のためには、血液の凝固、線溶系に関わる諸因子の臨床検査成績が必要である。

10  DICの治療には、血小板輸血、ヘバリン投与が考えられるが、これらの治療は、出血傾向を亢進させる作用もあり、その使用は慎重でなければならない。DICの治療のための指針はいまだ確立したものとはなつていない。

四気道閉塞から窒息の発生機序

裕子の直接の死因となつたのがITP又はDICによる胃腸管出血による気道閉塞による窒息であることは、当事者間に争いがない。そこで、気道閉塞から窒息がどのようにして発生したかについて検討すると、証人三河春樹の証言、被告本人尋問の結果及び三河鑑定を総合すれば、四歳未満の小児といえども、気管に吐物がつまつた場合、咳嗽反射が適正に保たれている場合には、極端な消耗状態にない限り、自ら嘔吐に適した体位をとつて危急に対応するため、吐物を誤吸入することはまれであることが認められ<る。>そして、前記事実経過のとおり、裕子は、特段苦しがる様子もみせず、咳嗽反射も起さずに下顎呼吸をはじめて死に至つていること、裕子は、死亡直前まで意識がはつきりしていたこと、裕子の身体が極端な消耗状態にはなかつたと認められることなどの事情に照らせば、裕子は、ITP又はDICによる脳内出血の合併症が生じたため、咳嗽反射機能が果せなかつたか、あるいは、大量の出血によるショックによる意識低下によつて嚥下障害を起した可能性が強く、本件全証拠によつても、その他に咳嗽反射、嚥下の機能が果せなかつた原因はみあたらないから、裕子の窒息の原因は、ITP又はDICによつて脳内に出血の合併症が生じたため、咳嗽反射機能が果せず、気道内に入つた血液を嘔吐できなかつたかあるいは、大量の出血によるショックによる意識低下によつて嚥下障害を起したものと推認できる。

五以上の認定事実及び医学的知見を総合し、被告において、裕子がITP又はDICであることの予見、診断ができなかつたか否かについて検討する。

前記事実経過のとおり、裕子には高熱、咳嗽、胸部ラッセル、扁桃線発赤の所見は認められたものの、ITP又はDICの特徴的所見である皮膚の紫斑、溢血斑は認められず、尿検査において異常はなく、注射後の止血困難もないなど、少なくとも被告の初診以後昭和五三年一月二七日午前零時二〇分ころまでの間には全く出血傾向が認められていなかつたのであるから、右時点までに被告が裕子がITP又はDICに罹患していることの予見は不可能であつたというほかない。

そこで、次に、被告が前記事実経過6の吐血の報告を受けたことで、裕子がITP又はDICであることの予見をすべきであつたといえるか否かを検討すると、一般に医師は、患者に罹患の疑いのある疾患について、常に可能な限りのあらゆる可能性を考えて検査を尽さなければならないものではなく、とりわけ一般開業医においては、患者の症状の程度、可能な検査技術の種類及び程度、他の専門的検査機関を利用することのできる可能性などの諸般の事情を斟酌したうえ、一定の臨床診断を得るべき必要性又は緊急性に応じてこれに必要かつ有効な範囲内の検査又は専門機関への検査依頼などを尽せば足りるものと解される。そして、前記医学的知見1のとおり、小児が胃腸管から出血することはまれであり、裕子ほどの年齢の小児が吐血した場合、その原因のうちで最も頻度の高いものは鼻出血の嚥下であるから、被告としては、裕子の吐血の報告があつた時点において、その原因が鼻出血の嚥下と推測したことは無理もない判断であり、この段階で、裕子がITP又はDICの可能性があることをも考慮して検査、診療を尽す法的義務はないというべきである。

なお、更に裕子が死亡するまでにITP又はDICの診断ができたか否かを検討すると、前記医学的知見のとおり、ITP、DICともその診断には少なくとも血液の凝固、線溶系に関する諸因子の検査成績の判明が必要であるところ、被告本人尋問の結果によれば、被告としては当時、血液の凝固、線溶系諸因子の検査をするには、血液検査の専門医療機関である佐賀県医師会臨床検査センターに依頼するほかなく、その結果が判明するためにはほぼ二四時間を要したことが認められ、右認定に反する証拠はないから、本件では昭和五三年一月二六日午前七時四〇分ころまでに右検査センターに血液検査を依頼しない限り、とうてい裕子の死亡までにITP又はDICであることの診断はなしえないことになる。しかし、右のとおり、少なくとも同月二七日午前零時二〇分ころまでの間は、出血傾向はもちろん、その他ITP又はDICに罹患していることを窺わせる症状は全く認められなかつたというほかないから、裕子の死亡までに裕子をITP又はDICと診断することは不可能であつたといわざるをえない。

六被告、北村看護婦の過失

1  原告らは、被告が被告自ら又は補助者たる看護婦を通じて裕子を昭和五三年一月二六日午後六時三〇分ころから翌二七日午前七時四〇分ころまでの間看視、診察する義務を怠つたと主張する。

被告が裕子を右期間中診察しなかつたことは当事者間に争いがない。そこで、看視する義務について検討すると、前記のとおり、被告には、裕子がITP又はDICであることを予見して診療しなければならない義務はなく、その他に裕子の容態の急変を予見しうるような事情は、前記事実経過中にもその他本件全証拠をもつても見出せないから、祖母である原告ハツヨが常時付添つていて容態に異常があれば直ちに看護婦に連絡される体制がとられている以上、さらに被告自ら又は補助者たる看護婦が常時裕子を看視しなければならない義務があるとまではいえない。まして、被告に診察の義務があつたとはいえない。

2  次に、原告らは、被告には、裕子の吐血を鼻血を飲み込んだものと即断し、止血防止の措置をとらなかつた過失があると主張する。

被告が北村看護婦からの報告を受けて裕子の吐血は鼻血を飲み込んだものと思い、鼻孔に綿花をつめること以外に止血の措置をとらなかつたことは当事者間に争いがない。

しかしながら、前記のとおり、裕子の吐血を鼻出血と思つた被告の判断は、一般臨床医の判断としては無理もないことであるから、これを過失ということはできない。

更に出血防止の措置について検討すると、前記医学的知見2のとおり、予め原疾患の診断が下される以前に出血に対する対応を決定することは不可能であり、本件では、原疾患の診断を裕子の死亡前に下すことはこれまた前記の検討により不可能であつたのであるから、出血防止の方法をとるか否かはもちろん、いかなる方法を選択するかの決定も不可能であつたというほかない。

また、前記医学的知見7、10のとおり、血小板輸血及び副腎皮質ステロイドホルモン剤の投与の方法は、副作用も考えられるため、患者の出血量、速度、患者の耐容力を総合して出血が重篤と認められる場合にはじめて用うべきものであるが、証人三河春樹の証言及び鑑定によれば、裕子の吐血量は、胃腸管という内臓からの出血の形をとつているため、その全貌がいわばブラックボックスの中に隠されており、出血量、速度を正確に捉えることはできないことが認められ、前記事実経過によつて認められる裕子の死亡前の症状に特段の重篤さがないことをも併せ考察すれば、裕子の症状が重篤であり、出血防止の措置が必要であるとの判断を被告に期待することはできない状況にあるというほかなく、このような場合に被告に止血防止の義務があるということはできないから、原告らの右主張は採用できない。その他本件全証拠によつても、その余の止血のための速効的な手段があり、かつ、これを被告がとりえたとは認められない。

3  次に、原告らは、被告又は北村看護婦が裕子を横臥位又は座位にしなかつた過失があると主張する。

そこで、この点についてみると、前記事実経過9のとおり、北村看護婦は、昭和五三年一月二七日午前七時二五分ころ、裕子が嘔吐しそうになつたときには、土井看護婦に命じて裕子を横臥位にしたことは認められるが、その他に被告又は北村看護婦が裕子に横臥位又は座位にしたことは本件全証拠によつても認められない。

しかしながら、前記四のとおり、気管に吐物がつまつた場合、四歳未満の小児といえども、咳嗽反射が適正に保たれている場合には、極端な消耗状態でない限り、自ら吐血に適した体位をとつて危急に対応するため、吐物を誤吸入することは稀であり、前記事実経過のとおり、裕子はそれまで意識等もはつきりしており、咳嗽反射が適正に保たれていない状態にあったとか、極端な消耗状態にあつたというようなことを窺わせる事情は、前記事実経過中にも、本件全証拠によつても認められないから、被告又は北村看護婦が裕子を横臥位又は座位にさせなかつたことをもつて、過失とみることはできない。

更に、前記四のとおり、裕子の窒息の原因は、ITP又はDICに基づく胸内の出血によつて咳嗽反射が果せなかつたか、出血のショックによる意識低下によつて嚥下機能に障害が起つたためと推認できるから、嘔吐の基本となる咳嗽反射自体が機能を果せない以上、たとえ原告ら主張の横臥位、座位の体位を常にとつていたとしても、経験則上、右体位のみによつて吐物が気道外に排出されるとは認められず、したがつて、横臥位又は座位にすることによつて、気道閉塞の結果を回避したことの証明は不十分であることに帰する。

そうとすれば、被告又は北村看護婦の横臥位又は座位をとらせなかつた行為を裕子の死との因果関係ある過失とはいえないこととなる。

4  原告らは、被告又は北村看護婦が裕子の気道内の血液を吸引器によつて吸引除去し、気管切開などの措置をとらなかつた過失があると主張する。

被告又は北村看護婦が吸引器による吸引除去、気管切開などの措置をとらなかつたことは、当事者間に争いがない。しかしながら、前記のとおり、被告に(まして北村看護婦には)裕子がITP又はDICであること及びITP又はDICに基づく脳内の出血、ショックによる意識低下があることの予見はできず、したがつて、気道閉塞の原因の予見ができなかつたことになるのみでなく、<証拠>によれば、被告は、裕子の死体を見分して裕子の直接の死因は胃腸管の出血による失血であると判断していたことが認められ、右認定に反する証拠はなく、前記認定事実及び本件全証拠によつても、被告または看護婦が裕子の死亡までに裕子の気道閉塞を知り得たとは認められない。よつて、被告が裕子の気道閉塞を知り得たことを前提とする原告の主張は失当というほかはない。

更に、仮に気道閉塞を知りえたとして、本件において、被告が裕子の気道閉塞を除去して裕子の死亡という結果を回避しえたかについて検討すると、前記事実経過11のとおり、裕子の解剖の結果、気管内全般にわたり淡赤褐色の泡沫液が、肺の諸所に血液吸引による小斑状の赤血斑が、気管支内に泡沫血様液がそれぞれ認められるのであり、証人三河春樹の証言及び三河鑑定によれば、右解剖所見に認められるほどの全肺野にわたる血液の吸引があつた場合、気道切開はもちろん、カテーテルを用いて気道吸引し、生理食塩水による洗滌を反復したとしても、死に至る結果を阻止するのは困難であることが認められ、これに反する証拠はないから、結局、被告がカテーテルで気道吸引をするなどしたとしても、裕子の死の結果を回避することはできなかつたことに帰する。

したがつて、被告は、原告らの右主張の過失内容について、結果の予見可能性も結果回避可能性もなかつたことになるから、原告らの右主張は、失当である。

5  原告は、北村看護婦に、裕子の容態を逐一被告に報告しなかつた過失があると主張する。

しかしながら、本件では、前記のとおり、裕子がITP又はDICであることの予見ができなかつただけでなく、その他に裕子の容態の急変を窺わせる事情は本件全証拠によつても認められないこと、裕子の鼻出血、吐血等がおきたのは深夜から早朝の時間帯であることなどを総合すると、北村看護婦は、裕子の容態のすべてを逐一被告に報告すべき義務があるとただちにいうことはできない。

そこで、北村看護婦の具体的行為について検討すると、原告らは、裕子が昭和五三年一月二七日午前零時四〇分ころ約二〇〇ミリリットルの吐血をしたと主張するが、前記のとおり、右事実を認めるに足りる証拠はない。同日午前零時二〇分ころの鼻出血については、その量を除き、当事者間に争いがない。そして、被告本人尋問の結果によれば、小児が鼻出血を起す原因は多く考えられ、中でも熱のある感染症、感冒、インフルエンザ等の場合には出血しやすいことが認められ、右認定に反する証拠はない。また、経験則上、鼻出血は、日常にありふれた原因で起りうるのであることが認められ、前記事実経過5のとおり、右鼻出血はほどなく止つていることをも総合すれば、北村看護婦が右事実を直ちに被告に報告しなかつたからといつて、北村看護婦に過失があるということはできない。

次に、同日午前一時五〇分ころの吐血については、前記事実経過のとおり、北村看護婦は、被告に報告していることが認められるから、この点についての原告らの主張は、その前提を欠き失当である。

次に、同日午前三時四五分ころの吐血については、右の午前一時五〇分ころの吐血と異なった容態がみられれば格別、前記のとおり、心拍数は一分間に一二〇回で多少速かったが、意識は正常で、皮膚の蒼白もなかつたのであるから、北村看護婦が吐血を被告に報告しなかつたからといつて、看護婦が通常果すべき注意義務に違反したとはいえない。

七以上の検討により、原告らの主張する被告又は北村看護婦の行為を過失と認めることはできないばかりか、本件は、最初の鼻出血から死亡までわずか七時間余という極めて急激な展開を見せており、脳内出血あるいはショックによる意識低下という合併症を伴つたITP又はDICの出血傾向がある例であり、出血を阻止し、気道閉塞を防止することは至難の技であつて、本件全証拠によつても、原告らの主張する前記止血措置等によつて裕子の命を救いうる蓋然性があつたとは認められない。

これに反し、甲第二号証の一中には、「もう少し早く具体的に申しまして午前一時頃の第一回目の報告三〇分後にでも当番看護婦から報告を受けていれば患者は死なずに済んだものと思い残念でなりません。看護婦の職務怠慢で死なずにすんだ裕子ちやんを死に至らせた事は当医院の院長としてその責任は私峰松卯一にあり」と、甲第二号証の二中には、「再出血の時先生に連絡しなかつたために十分の出血(吐血)に対する処置が出来ず死に致らしめたことはほんとうに申し訳がありません。」との記載部分がある。しかしながら、右各書証は、どのようにすれば結果回避が可能であつたかという細部に及んでいないのみならず、作成時点では裕子の詳細な血液検査の結果、解剖の結果が判明しなかつたのであつて、そもそもその信用性に疑問があるばかりでなく、<証拠>を総合すれば、甲第二号証の一、二は、原告一茂及び野副寛司が昭和五三年一月三一日午前九時ころ、外来診察開始直前の峰松医院を訪れ、被告及び北村看護婦に対し、裕子の霊前に供えるから詫び状を書くように強く要求した結果、被告及び北村看護婦がやむなくこれに応じて作成されたものであることが認められ、右認定に反する証人野副寛司の証言及び原告一茂本人尋問の結果は、信用できないから、被告及び北村看護婦の真意に基づいて作成されたものとは認め難く、その記載内容は措信できない。

よつて、被告又は北村看護婦の措置と裕子の死との間には相当因果関係を認めることができないから、被告に診療債務の不完全履行責任、不法行為責任を負わせることはできない。<以下、省略>

(裁判長裁判官綱脇和久 裁判官森野俊彦 裁判官甲斐哲彦)

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